【当時の状況】
初回コンサルティングから2週間。私はまた霞々の元を訪れました。
お部屋に入った瞬間、1回目とはちょっと違う香り。
そして、ミントの香りがするミルクティー。
2回目のこの日は、話していくうちに、改めて自分の症状は特に重いという訳でもないのかなと思い始めました。
霞々の言う通り、入院一歩手前というわけではありません。
とはいえ、「病気は自分が治すものよ」と言われると気が重くなります。
「じゃあ誰が治すの?」と聞かれると、返事に困るけど。
前回、今回と強く言われたのは「薬はお友達」だということ。
大変な時には助けてもらうけど、それに全てを頼るのは違う、と。
じゃあ自分が治すってどういうこと?自己治癒能力ってなに?
この日、一番グッときたのは霞々のこの一言でした。
「ダメージを受けたのは たまり ちゃんが優しいからだと思うわ。」
あのショックを受けた気持ちを「弱い」ではなく「優しい」として受け止めてくれている霞々。
「感受性が高い分、ダメージを受け易いんじゃないかしら。」
私のことをそんなふうに表現してくれる人はいませんでした。
なぜかその言葉に心底からの安心を感じ、涙が出ました。
「たまり ちゃんの今後の夢はなぁに?」
「?」
「夢ってね、どんなことでもいいし、毎週変わってもいいものなのよ。」
へ~、そういうものなんだ。
でも、なんだろう、私の夢って。
ほとんど浮ぶものがなく途方に暮れた結果の答えは、
「ずっとギリシャに行きたかったな。」
都会の喧騒から離れてゆっくりくつろぐリゾート、仕事を離れた休日。
「?」
ということは、仕事をしていないと意味がないわけです。
基本的な将来の姿は仕事をしていることなんだと気づきました。
そして、10年ぶりに一人旅がしたいと思いました。
「とっても魅力的な女の子なんだから、このままにしておくのはもったいないわ。」
と、明るく言う霞々。
こんなに魅力的な女性である霞々に、「魅力的な女の子」だと言ってもらえ、「この霞々が言うんだから私って本当に魅力的なのかも」と心のどこかで思えました。
栗毛色のゆるやかなウェーブのかかったロングヘアに、淡い色でコーディネートしたお洋服を着た霞々は、可愛らしさややわらかさ、あたたかさと共に、豊かな知恵を持つ女性の雰囲気をふわぁっと醸し出していました。
彼女は、ハートにささやくようなおしゃべりとチャーミングな雰囲気がキラキラと溢れ出てくるような人なのです。
そんな霞々に「魅力的よ」「大丈夫よ」と言ってもらえた私は、自分の可能性がまだまだあるかのような気持ちになれたのです。
そして、しばらくは毎週霞々のところに通うことになりました。
週1回、定期的に通うところが出来て、その場所が霞々のところであれば、きっと生活にハリが出てくることでしょう。
でも、不安でした。
1年半以上もずっと夜は睡眠薬で強制的に眠り、日中は抗うつ剤と精神安定剤を飲み続けてやっと身体が起こせる程度だったからです。
ちゃんと夜の12時頃には眠っているのに、翌日の夕方までに起きられたら良い方。
平均12時間睡眠は異常だと思っていました。
薬なしで生きていけるのか、それがまだ信じられませんでした。
「私、本当にもうすぐ元気になるの?」
「今信じられなくても、気がついたら元気になっていて、あれっ、って感じじゃないかしら。」
「だって新聞も読めないんだよ。」
「新聞が読めなくたって暮らしていけるわよ、テレビもあるし大丈夫。」
「自炊だって出来ないんだよ、時間あるのに。」
「確かにそうね。でも1年365日毎日カロリーメイト食べてる訳でもないでしょう?」
とクスクス笑いながら、茶目っ気たっぷりに言ったのです。
「霞々は、どれもこれもそんなに大した問題ではないと思うの。」
目から鱗でした。
朝刊が読めなくなった人はうつ病を疑ってください、と、各種雑誌によく載っていたし、主治医からも現にそう診断されていました。
それなのに、頼んでもきっと病人扱いしてもらえないほど
「それがどうしたの?霞々から見れば たまり ちゃんは何も特別ではないわよ。この環境、この状態ならそうなる人がいてもおかしくはないし」
と言わんばかりの言葉の連発でした。
まるで違う世界の人の言葉みたいに思えました。
でも、そう言われてみればそうかもしれない、少し気が楽になってきました。
そして、来週が早くも楽しみになっていました。
【当時を振り返って】
とりあえずもう一回は行ってみるか…ぐらいの気持ちでした。
1年半の間、最低毎日(時には日に2、3回)電話をしていた母も賛成してくれました。
初セッション後の2週間の私の変化に、何か明るい兆しを感じていたようです。
今でも霞々に自分のことを「感受性の高い、優しい女性」と捉えてもらった時の驚きと喜びは、鮮明に心に残っています。
それまでの私の中ではずっと「うつ病、精神的ショックで休職=弱い人間、ダメな人間」という方程式が成り立っていました。
それに対し、霞々は
「感受性の強い人は、ショックを受けがち。ショックの度合いによっては寝込むけれど、物事をきちんと感じられて、受け止められるタイプ。人間的に良いも悪いもないけど、特にセルフコントロールを心がけないと大変ね」
という考えでした。
病気や症状の変化さえ、システムの一環として扱われることがほとんどのこの世の中、当時の私を「感受性」という物差しで見つめる人がいるという驚き、私を否定しない雰囲気がとても嬉しかったのだと思います。
将来の夢を語るときも「 たまり ちゃんが現実的に叶えられそうなこと」という方向で何度も聞き返してくれたようです。
だから、霞々と話すごとに自分のイメージは病人ではなく、当然元気に動き回っている自分、という設定に自然となっていきました。
そして、あまりに漠然としていたのが『自然治癒能力・自分で治す』という概念でした。
どういう意味なのかが分からなくて、それをどう質問したら自分に分かる答えが返ってくるのかすら分からなくて、質問も出来ませんでした。
「 たまり ちゃんはそう思ったのね」
「 たまり ちゃんはそう捉えているのね」
「…と言われたことを たまり ちゃんは信じているのね」
と、会話ごとに念を押す霞々。
すべてを自分が考えていることひとつだけしかない、過去の事実はひとつしかないんだと思い込んでいたので、自分の見方から創っていたストーリーだとは夢にも思いませんでした。
相変わらず薬に依存し、肌荒れや体調の不具合に悩まされていた生活でしたが、週1回のおけいこごとを楽しみにするような明るさを自分に感じていました。
何をしても無気力で、宗教などの良いお話を聞いても気分が悪くなってしまう娘を見続けて来た母は、この変化を敏感に感じ取り、「霞々にかけてみたら?」と全面的に応援してくれました。
当時、母は霞々と一面識もなく、
「『変な人に娘がだまされている、宗教の勧誘かも』とは疑わなかったの?」
と、あの頃を振り返りながら改めて聞いてみました。
すると、
「お医者さんに行っても一向に良くならなかったのが、声も表情も明るくなって、通ってみたいところが出来たなんて言い出したのは初めてだったから。お友達の紹介だから安心したわけではなく、あなたの変化を感じて、きっと霞々という人はあなたを前に進めてくれる人なのでは、と母親の勘で思ったのよ。」
と、迷うことなく答えていました。
【霞々の想い】
まず、『過去の記憶』というのは『現在から創られる物語』という見方をアドバイスしています。
過去の事実(夫が帰らなくなった、うつ病と診断された…など)は確かにひとつですが、過去の事実にまつわる感情(浮気された自分は情けない女だ…など)や現在との関連づけ(うつ病と診断された病人なのだから、ずっと起きられなくても仕方がない…など)は、しゃべっている今その時に、自分の考えに基づいて創っているんだよ、という視点です。
夫のせいでこうなった…から始まる悲惨な物語は、いずれ
「考えてみれば、前夫が浮気したおかけであなたと巡り会えたのね。彼が浮気して離婚していなければ、あなたと出会っていないもの」
というラブストーリーに変わり、前夫の浮気と離婚は、彼女にとって感謝すべき事柄になっていくのかもしれません。
その時には『あの悲惨な過去』は『ありがたい過去』に変わる可能性だってあるのですから!
過去の事実はひとつでも、過去の場面をどう見るかは、現在のあなた次第というアドバイスですね。
「あの頃は~でした」
と たまり ちゃんが言うたびに
「~とあなたは思ったのですね」
としつこく言い返すことで、それは『 たまり ちゃんが』創っているストーリーであり、決して完璧な見方の過去ではないと強調しています。
夫の浮気、そしてうつ病の診断は、今の症状の重要なきっかけではあるけれど、違う視点から過去を見直せば、同じ事実でも受け止め方は違うはずです。
夫の浮気を知った妻が全員うつ病になるわけではありませんし、うつ病と診断された人がみんな休職し、果てしなく苦しむのが当たり前でもないですから。
過去の思い込みを少なくすること、元気で楽しい将来に目を向けることによって、ほんの少しでも心にゆとりが出来てきたのでしょう。
そして、感受性という言葉をキーワードにして別の角度から当時を見直すアイディアは、 たまり ちゃんの自己嫌悪をやわらげ、女性としての自信を持たせてくれたかのようです。
新聞に目を通すこと、自炊することなどは、うつ病の診断基準がどうであれ、疲れ切っている時にはうんざりすることのひとつでもあります。
すぐさま死ぬ訳ではないことに重大な価値を与え過ぎて、考え込まないでねと、生きるやりくりをお伝えしていた霞々です。
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